雨の夜更け

雨の夜更け

夜中、二階の部屋にいる。西側の壁に置かれたベッドの脇でうろうろしている。ズボンを下ろした中途半端な格好で。

部屋の明かりは消えていたが、チカチカした光が外から入ってくる。ネオンサインが発するけばけばしい光のようだ。（そんな広告灯などこの辺りの住宅地にはないはずだが。）

もう寝ようとしていたのに落ち着かない。部屋の扉がちゃんと閉まらないからだ。このままだとトイレに起きた姉が入ってくるかもしれない。

何か噛んでるんじゃないかと見ると、廊下側に置いた洗濯籠から無理に突っ込んだ洗い物が溢れて、それが挟まっている。引き抜くが、やっぱり閉まらない。まだ何かあるのかと見ると、昔玄関に置いていた木枠だけの傘立があって、そこに父のゴルフクラブが数本、傘代りに立っている。一度は母が捨てようとした傘立だったが、父は自分の使わなくなったゴルフクラブをそこに立ててしまったのだ。どうもこの傘立から突き出たゴルフクラブの一本が、扉の開閉を邪魔をしているようだ。いいかげん処分してもらいたい。だが父の事だ。いつまでもこうして放置したままでいるだろう。しかし、どうしてわざわざこんな扉の開閉を阻むような場所に置いてしまうのだろうか。

傘立ごと部屋の中へ入れる。すぐ左手に場所があったので、とりあえずそこへ置いた。

今度こそ閉まるだろうと思ったのだが、やはり扉は閉まらない。建付が悪くなっているのだろうか。力任せに無理に引いてみた。するとガタッと、扉は枠だけを残し、蝶番ごと見事に外れてしまった。

その、部屋を入ったすぐ左手、傘立を置いた辺りには大型液晶テレビが設置されている。液晶画面からはザーザーとさっきから「砂嵐」が流れている。部屋の中がチカチカしていたのはこの所為だったかもしれないと考えを改める。外の様子を確認するつもりだったのか、大きな窓のある部屋の南側へ移動する。

だが外を見る前に、南側の窓近くにも小型モニターが置かれているのに気付く。スイッチが入ったままなのだ。「砂嵐」が流れる大型液晶テレビと連動したこの小型液晶モニターは、かなり長い間電源が入ったままになっていたらしい。プラスティック製筺体が熱で溶け始めている。触ると、グニャっと形が変わってしまう。

また父がトイレに入っていた。玄関脇のトイレから今出てきたところなんだろうが、見窄らしい寝間着姿のまま、戸口でぐずぐずしている。お客さんが来たから、と声を掛けるが、父の動作は鈍く、なかなか引っ込んでくれない。そこへもってきて間の悪いことに母まで用足しに起きてきたではないか。父と入れ替わりでトイレへ入ろうとしている。髪はぼさぼさで、草臥れた、小さな花柄をあしらったネルの寝間着を着て。

「ねぇ、お客さんが来たから、早く済ませて。」と急かしたのがいけなかった。こんな夜中になんなの、と食ってかかられ、玄関先で言い争うはめになってしまう。親子のいざこざを見られるほど恥ずかしいものはない。カチャンと門扉の開く音がする。キリコと正太がもうそこまで来ているのだからと、母を適当にあしらって玄関を開ける。

「久しぶり。どうぞ。」

古い農家の土間のような玄関の広い三和土に二人を呼び入れる。

「コルヘだよ。」と、顔を合わせるなりいきなりキリコがそう言って、紐に繋いだコルヘを連れてきた。えっ、コルヘ？と訝るが、名前を呼ぶとコルヘがぬっと顔を出す。

「コルヘ、どうした？」

あれからどうしていた、という意味でそう声をかけた。あれから、とは、死んでから、ということだ。

私に声をかけられたコルヘは嬉しそうに顔を上げ、へっへっと長く大きな舌を出してすり寄ってくる。

残念ながらその時気付いたのだが、毛の色が違う。やはりコルヘではなかった。キリコはコルヘが死んだことを知らないのだ。それだけ長く彼女とは会っていなかったことにもなる。

彼女がコルヘだという言う犬は茶色のコーギーだった。どうも母犬らしく、私がコルヘでないと気付くとすぐ、三和土の向こうにある土間の一段高くなった場所へとっとと駈け上がり、仰向けにひっくりがえって、まるで人間が幼児をあやすような格好で、可愛い子犬をその短い前足で掲げ上げているのである。その親子だけでなく、左手にあるやはり一段高く盛られた土間の所にもう一匹、成犬のコーギーがいる。キリコと正太はコルヘと間違え、犬を三匹も拾ってきたのだった。

二人を二階の私の部屋に通すつもりだったがすっかり犬に気を取られてしまった。

ああ、外の雨で犬がびっしょり。タオルで拭いてやらないと、と考えてすぐ、いや、そもそもキリコと正太にバスタオルを貸さなければいけない。久しぶりに訪ねてくれた二人は濡れているはずなのだ。

2007 11/7

部屋の扉の事も、この熱で溶けたモニターの事も気にはなっていたが、私は着替えて寝ようとしている。上着は身に着けていたが、下は勃起したままパンツ一丁で。まだどうしたものか迷っているようだ。

そのまま窓に近付くと、ブラインドの角度がいつもと逆になっている。斜め下から透過する向きだ。これでは外から見えてしまう。気になる事がまた一つ増えてしまった。

雨のようだ。外ではザーザーと雨が降っている。庭が濡れて、黒く光っている。

と、「コルヘー」と女の叫ぶ声が雨音に混じって聞こてくる。

聞き覚えのある、咽頭に強く当てる声だ。とっくに死んでしまった犬の名前を呼んでいるのはキリコではないだろうか。こんな夜更けに大きな声で。

庭の南東側、ここから見て左手の、お隣のイトザキサンチとの境界にある塀の辺りを見ると、確かに大柄な女の影がある。キリコがコルヘを呼んでいる、と分かると、その影の後ろからちらちらと橙色した光が漏れる。誰かが懐中電灯で暗闇に立つキリコを照らしているようなのだ。お隣の敷地から塀を越えて庭へ入ってこようとしている彼女に続いて、懐中電灯を持った誰かが付いてくる。その懐中電灯の光が黒く濡れた庭に一筋の線を引いたかと思うと、そのまま向きを変え、くるっとこちらへ、私が見下ろす二階の窓へと駆け上がってくる。照らされたらまずい、と慌てて身を引く。下へ向いたブラインドの庇から懐中電灯の手持ちでぶれた弱々しい光が部屋へと差し込んでくる。一旦窓から遠のき、こそこそと身を屈め、その光がまた別の場所を探しはじめ、部屋へ差し込まなくなったのを確認してからもう一度、窓の下の方、ブラインドの隙間から恐る恐る覗き見する。

正太だ。懐中電灯を照らしているのは正太だ。こんな夜更け、雨が降る中、キリコと正太が久しぶりに訪ねてきたのだ。多分酔っているんだろう。そうでなければ、お隣のイトザキサンチの敷地から無理に塀を越えてやってくるなんて、考えられない。二人はもう庭の真ん中にいて、コルヘを探している。コルヘなんかとっくにいないのに。

実際には無いのだが、部屋の東側にもう一部屋あることになっていて、そこで寝ていたカナエサンが騒ぎに気付いて起きてきた。ともかくズボンは履こう。こんな恥ずかしい格好でいるところを誰にも見られたくはない。だが暗闇で適当に拾い上げたズボンは、大きくぶかぶかで、ナイロン製の安っぽい黒の、更に赤いサイドラインの入ったどうしようもなくちんぴら風のズボンで、これではまるで十代の不良ではないかと自分で思うのだった。

それでも履いてないよりましだ。急いで階段を下りて、玄関へ向かう。