パリから帰る

本当なら今頃は無事日本へ向かう飛行機に乗っていたはずだった。ロビーでカミマチさん達と出会ってしまったからこんなことになった。

支払が三ヵ月遅れる、と言われ、私は抗議した。傍にいた、見知らぬ中年の男性に泣き付いたほどだ。正太は素知らぬ顔をしている。結局カミマチさんが借金をして、十五万を用意してくれる、と落ち着いたのだが、治まらない私はもうバスに乗ってしまい、後部座席の高窓から顔を出し、遥か下の路上にいる正太へ罵声を浴びせていた。

「そんなことだから失敗するんだ！ちゃんとコミニュケーションとらないでどうする！」

エンジン音に消されるのがわかり、「コミュニケーション」という部分を一音づつはっきりと言ったが、彼にその言葉が届いたかどうかは疑問だ。かりに届いたとして、彼にはその意味が伝わるだろうか。分かってくれるだろうか。

バスの後部座席にはコンドーくんとメグミさんが座っていた。私はコンドーくんに正太とのことで同意を求めた。

「彼に足りないのはコミュニケーションだよねえ。そうだよね。」

メグミさんもコンドーくんも、何も言わない。私はコンドーくんにじゃれついたが、彼はやはり特別どうとも思ってないか、あるいは、わたしの言っている事が的外れと考えているのか、私を相手にしてくれない。ひょっとすると、彼等から見れば私も正太も一緒なのかもしれない。なんかそう思うと私も少し恥ずかしくなってきて、静かになってしまった。

このバスは次のツアー公演へ向かっているのだから、私はこのまま乗っている訳にはいかない。荷物もパスポートもホテルに置いてきてしまったから、これからどうしたらいいだろうか。メグミさんが言うには、ともかく次の停留所で降り、しばらく歩くとパリを東西に横断する地下ディーゼル列車があるから、それに乗って飛行場まで行けばいい、そして一旦沖縄までいき、そこから東京へ戻るのがいいだろうという。外国慣れしている彼女のことだから、パスポート無しで帰国する方法を知っているんだろう。彼等に別れを告げ、私はバスを降りた。

見舗装の真直ぐな林道のような坂路を上っていく。私の考えでは、パリを東西に走る地下線路はこの坂の頂上にある。だから、もし過ぎてしまうことがあれば、路が下り坂になったときだろう。始めは何人か一緒に歩いていたが、だんだん減り、今は一人歩いている。結構上りが続き、思っていたより距離がありそうだ。緑の林が濃くなったあたりで、路が下りに変わり始めた。駅入り口らしきものがないのでそのまま歩くが、少し不安になってきた。この辺はまるで日本の地方にある景色と変わらない。うっかりすると、もう日本に帰ってきたんじゃないかと、錯覚するほどだ。事実、漢字で書かれた表札を目にするようになった。瓦でしつらえた門だけを見ていると、ここが異国とは思えない。

「氷」という暖簾をだした古風な甘味処を見つけた。日本人がやっているようで、さっそく私は店側ではなく、脇にある厨房の勝手口から入ってみた。

「ちょっとうかがいたいんですが。」

日本語が通じるというのは助かる。

駅が何処にあるか聞くより先に、何故この辺に日本人が多いかを尋ねてみた。

白の三角巾、割烹着の給仕のオバサン。

「このあたりは中央が隆起してできた土地で、今も一年で五センチほど隆起したりするんよ。」

最近の大きな地殻変動で新しく出来た土地に日本人が住み着いたということらしい。さて、私はどうしてこのような辺鄙な土地に来てしまったかという説明をしようと、カミマチさんとの出会いから話そうとし、でも、この人に何の関係のない事を話す無駄をすぐさま感じ、「ある事情があって」とはしょり、結局は全ての説明が「事情があって」くらいの事しか言えずに、「ある事情があって私はここにいる。」と言うだけになってしまった。こんな山の中から、本当に日本へ帰れるのか、だんだん分からなくなってきた。何で沖縄経由ならパスポートなしで出入国できるのか理屈がつかなくなってきた。ともかく、あそこでカミマチさんと会わなければ、何事もなく、普通の多くの日本人観光客と一緒に、成田へと向かう飛行機に乗っていたはずなのに。

一九九四年　九月八日

パリから帰る