パリの近くで

夜の国道を走っている。アケタのシマダさんに聞くと、この辺はパリに近い所だそうだ。確かに、何気ない住宅の合間から、時折ゴシック様式の建造物が一瞬見え隠れする。せっかくこんな所を走っているのなら、寄って行けばいいはずなのに、車は止まる気配がない。急いでいるのはわかるが、飛行機にも乗らず、こんな遥かな町を通過する奇蹟を生かせないというのは勿体ない。

私が主張した記憶もないのだが、車は停車した。夜間の住宅街で下車したとき、自分のわずかな興奮もさめた。パリ近郊にいるからといって、それはたいしたことではない。どこにいたって夜は同じ様なもので、問題なのは、遠い所まで来る事に費やす時間であり、手間である。今晩のように自動車で国道を走るうちに通ってしまうようでは無関心になるのが道理である。同乗者でそれに気付いていなかったのは私だけだった。みんな車外に出ようともせず、街路灯の明りが眩しいのか、狭いシートの上で、迷惑そうに寝返りをうっている。

薄暗い泥地。植物も枯れているか、腐ってしまっている。この湿地帯に大型バスが停車している。トイレ休憩だと思う。目的地ではないし、勿論出発地でもないのだから。なのに不思議にも、私は持っていく物を選ぼうとしている。陰湿なこの土地にぽつんとある建物のなかで、自分の持ち物を選択している。忘れ物のないようにと、ここに来る前から置いてあった荷物を選別している。木造三階建ての一室。ここは部室かもしれない。そう、だから、これは持っていく必要の無いものだ、という、戻ってくる前提がなければ成り立たない思案を繰り返している。

あれこれ悩んでいたら、私は取り残されそうになっていた。ほとんど全員がバスに戻り、出発を待っている。呼ばれて慌てて向かおうとしたら、なんと私のサンダルがない。入り口付近のぬかるみに敷かれていた渡し板が、さっきの人だかりでばらばらになってしまい、きっとそのせいでサンダルもどこかへいってしまったんだろう。私が原因で全員の出発を遅らせていると思うと、かーっと頭に血が上ってくる。

泥にまみれた板切れの間から、ひっくり返り、裏返しになったサンダルの片方を見つけたとき、私はほっとした。もう一つは必ずこの近くの反対側に落ちているはずだからだ。

どろどろのサンダルを履き、気持ち悪くても、この際そんな事はどうでもいい。ともかく、バスに乗らなくてはいけなかったから。

平行して、というのもおかしな話だけれど、バスから降りてこの建物に入ってから、私はメグミさんに会っている。それまでは薄々いつもの皆で移動していると思い込んでいたのに、渡り廊下で彼女を見つけたものだから、一瞬混乱した。何故彼女がいるのか、と考えると同時に、今日正太の公演が終わったことを思い出し、それにまつわる出来事がこのバス移動に繋がっている、それでメグミさんがいる、と咄嗟に考えた。私の知る限り、メグミさんは喜怒哀楽を表に出さない。だからその通り、淡々と、おつかれさま、と言って二人強く抱き合った。ものすごい力で彼女は私を抱く。それに答えようと、私も力むのだが、恥ずかしいことに力が入らない。それどころか、彼女の締め付けがあまりに強く、苦しくなっている。その時私ははっとした。来ていないはずの人を、人影を、見たからだ。

なぜかその時の渡り廊下は西日が射していて、シルエットでぼんやりと、後ろ姿を見つけた。そんな長くもないのに、わざわざ左右で髪を束ねているところまでは似ていても、その人にしては背が少し低い気もする。いるはずがない。来なかったのだから。メグミさんに強く締め付けられ、動けない私は、追掛けるこができない。

人違いのようだ。別の人と見間違えただけ。

メグミさんは強く抱きながらも私の背骨の脇と腰の付け根を中指で押す。私もお返しをしたくて同じように中指を立てるのだが、抱き付いている腕が余ってしまい、触るのがやっとで、彼女のようにツボをうまく刺激するような真似は出来そうにない。本当に申し分けないと思いながらも、他人を見間違えたあの人に気持ちがいっている。

実はそんな事があってから、何を持って行けばいいか悩み、バスに乗り遅れそうになったんだと思う。そうでないと、時間の流れがおかしいことになってしまう。

一九九四年　八月二十八日　夕方

パリの近くで