東南アジア。太陽の照りつける昼。私は見知らぬ二人の男とホテルのレストランに戻ってきている。あのときと同じ状態でレストランは止まっていた。あれからどれくらいたったろう。営業停止になったとしても、私たちが慌ただしくテーブルをたった時のまま、何も片付けられていないというのは不自然だ。ボーイもコックも支配人も、あの騒ぎの瞬間からこの店を放棄したのだろうか。
荷物もそのままになっている。タイ製の粗い木彫りの椅子の上に、ちゃんとある。ふと、連れの、背の低い方の男の荷物を見る。大小揃いの、手染めのザック。小さいザックからは中が覗けそうだ。そう思い顔を近づけると、男がさっと取り上げてしまった。関わるな、ということか、サングラス越しにじっと見つめられる。
ブルース・ブラザース、例えればそんな感じの二人。ただ、この地にあうよう、帽子はベージュ、白のワイシャツ、いや、白の上下だったかもしれない。
なぜ自分がこの男たちと行動を共にしてるのかを、私は知らない。どういう関係なのか、わからない。薄々感じるのは組織に追われていること。彼等の出で立ちは、そう解釈することを余儀なくしている。しかし、だとすると、私もその組織から狙われているのだろうか。彼等の仲間なのか。いや、それどころか、あの時とか、あの騒ぎとか、いったい何があったというのか、私は知らない。なのにここに、この場所に戻ってきてしまっている。
トイレは奥にある。奥へ行くには、娼館を通っていかなくてはならない。あるいは、この娼館全体が、手洗い場になっているのだろうか。赤い絨毯を敷き詰めた中華風の待合室は、シンプルな内装のレストランとは対照的だ。
黒地に金で装飾された屏風の前で、女に声をかけられた。
さほど長くない、真直ぐな黒髪。けっして美人ではないが、目や口が大きく、とくに紅を塗ったその口元は、歯並びの悪さを越える艶がある。髪を右耳の後ろにかけながら、ふりかえっているのだろう。黒のチャイナドレスの後ろ姿を先に見た気がするから。
常連でもない私に親しげに話しかけてくるその女は、きっと今は客を取っていない。店をまかされているに違いない。豊満な上半身は、小ぶりながらも見せることを知っていそうで、そのことが同時に彼女の年齢を証言している。若い女ではない、派手さがあるわけでもない。なのに、確実な女なのである。
「あの二人のこと、なにかしってる?」
やはり彼等は組織に狙われている。私がしらをきったところで、どうにもならないだろう。すぐそこに二人はいる。ひょっとすると、それを知っていて、わざと私に聞いてるのかもしれない。探りを入れるように。
「あっ、そう。別にいいのよ。」
私が動揺していることには気付いているのに、なんでもないように流してくる。もう彼等はおしまいだ。手がまわっている。女の態度で確信できる。彼等が何をしでかしたかは知らないが、その最後だけは想像できる。大丈夫だろうか。私はこの件に関わっていないのだろうか。自分にまつわる肝心なことを知らないばかりに、逃げることも、とぼけることもできず、ただ置き去りにされている。
きっと女は、まだ私の去っていく後ろ姿を見つめているだろう。フロアを抜ければ下へ降りる階段がある。そこが洗面所になっているはずだ。そこまで行けば、と思ったとき、店の娘が丁度階段を上ってきた。
「そのコを抱いていきなさいよ。」
やはり。後ろからさっきの女が呼び止める。振り返り、そんな気分じゃない、今日は遠慮しておく、と後退りしながら、大げさな身振りを交えて断わろうとしているのだが、そうもいかないこともまた分かっている。
肩まで伸びた髪。体に密着する鴬色をしたチャイナドレス風のデザイン。ただ、スカートの丈は膝止り。西洋人のような長い脚ではないけれど、茶褐色の美しい脚がつづく。曲線で構成されるウエスト部と拮抗する、鋭角的な肩のライン。目的のはっきりした服だと思う。でも今はそれどころではない。自分も組織に目を付けられているはずで、それに、これくらいの女なら、何処にでもいそうだし、何もこんな時どうしても欲しいというほどの女でもないのだから。でも、そうなら、なおさら断わるべきでもなかろう。自然に振る舞っておくのが今のところ得策だろうから。
どんなやりとりがあったのかはもう忘れてしまった。けれども、蛍光灯の鈍い光に照らされた廊下を通って、その女と一緒に街に出ていた。
それは香港という街のようだった。真っ青な空、強い日差。波の飛沫を背景に彼女を見た気がする。岩場の上の、セミロングではない、ショートカットヘアーの彼女を見た気がする。髪形は気付く度に違っていた。思い出せないところを見ると、顔もその都度違っていたのかもしれない。でも、笑顔だけは共通していた。くったくのない、えくぼのできる笑顔だった様な気がする。きっと彼女は、あの女主人と違い、例の組織とは関係のない、二人の男のこと、そして私のことも、何も知らないで、こうして楽しそうにしているのだろう。彼女の仕事、娼婦であることも今は忘れている。ここにいるのは、暖かくしなやかな、ただの若い女性だ。
海岸沿いで私は、金属の立方体を見つめている。反射光の強いそれが鉄、そう、大きめな鉄道のレールだと気付いたとき、やたら広い軌道の上をのろのろと走ってくる、巨大な旧型電気機関車を目にした。少し傾斜のついた先頭部。四灯式ヘッドライト。茶色地に白く細い一本線。動いているはずで止まっている、遠いはずで、すぐ近くに見ている。だから、こんな細部まで覚えているんだろう。縮尺さえあっていれば、青い海を見渡しながら走る路面電車なのに。
昼の日差しのなかでも、路地に入れば建物の日陰がある。確かではないけれど、そんな所では子供たちが遊んでいたような気もする。
ゆっくり二人で町を歩く。
なにかの目的を、目的の達成をひきのばしているかのように。
私は泳がされている。そう思い始めた。きっともうすぐ、きっとこの後、このままいけば私はこの人と寝るだろう。そして、それが最後になる。あの二人の男と同じ様に。組織はゆとりがあって、こんな風に人を追い詰めていくのを楽しんでいる。顔のない、得体のしれない、組織という漠然としたイメージは、正体を明かすどころか、なぜこの私が狙われる羽目になったかをも、教えてはくれないだろう。
『高野女子専門学校』
看板だ。海沿いの線路、機関車、路地、これらに続いて目にしたもの。右手の灰色をしたコンクリート塀にかかった、白地のペンキがところどころ剥げた、古いトタン板に書かれている。
よくみると、「高」の字が「淳」のさんずいをとった字にも見えるし、あるいは、バランスのおかしな「京」の字かもしれない。この国の漢字は少し違うのだろうか。でも確かに、発音は「コウヤ」と読むのだ。高野女子専門学校。もう一度なぞってみる。コウヤジョシセンモンガッコウ。そして、何度も何度も、なぞってみる。そうしていると、ふわふわと脳裏に浮かんでくるモノ、言葉、コトノハが鮮明になってきた。
『ブッシュオブ専門学校』
英訳すればこうなることに気付いた時、何かすごくわかってきたような気分になり、全て説明できるような、晴れ晴れとした気持ちになってきたのが自分で分かった。
「これでいい、これでいい。」
女の肩を抱きながらつぶやいた。
せつなく、泣きながら、そうつぶやいた。
また二人で歩き出す。
私はその方向へと向かっていく。
一九九四年 三月八日 昼