右側を下にして

目が覚めていつもの部屋にいる。二階の日当たりのいい部屋だ。

カナエサンはもういない。仕事に出たのだと思う。

ここのところあまり顔を合わせない。帰ってくるのが遅いし、家にいても彼女は自分の部屋に籠もってばかり。コンピュータのデータ入力作業をしているようだ。朝、ニイカがいた頃は決まってテレビが点いていた。テレビの音が寝ている私の眠りに食い込んで、遠くから徐々に覚醒へと引き戻す。そして布団から身を起こすとカナエサンとニイカの後ろ姿がまず目に入る。テレビを見ているカナエサン、その脇ではちょこんとニイカがお座りして。そんな朝が無くなって久しい。近頃は起きた時にはもう、誰もいない。

布団を出したまま部屋の扉の脇でモニタースピーカーのケーブルを外している。映像機器からの音声信号を流すよう設定を変えているのだ。スピーカースタンドの上のアンプ内蔵型モニタースピーカーを傾け、裏側の入力端子を確認しながら配線している。分岐させたRCAピンケーブルを接続しようとしている。背を向けて立っているその後ろの方、南の窓側、だらしなく捲られて山になってる掛け布団の陰あたりだろうか、さっきから人の気配を感じている。気の所為だろう。部屋にいるのは私だけなのだから。そう思いながら念のため振り返ってみたら人がいた。私の知らない人、中年の男性が、隠れるよう布団の陰で横になっている。まだ眠たそうな目を擦り、半身を起こしてこちらを向いている。どうもずっとそこにいたらしい。

とん、とん、とん、とん、と、下から階段を上がってくる音がする。この歩調はカナエサンだ。もう仕事に出たものと思っていたが、まだ家にいたらしい。ああそうか、この人はカナエサンの連れなんだ、とその時合点がいった。それで三人で外出することになった。もうすぐお昼だ。今日は天気がいい。

カナエサンの説明では、その男性はパーカッションの○○君の何人かいる兄弟、その内の一人、その奥さんの弟ということだ。○○君。それはカナエサンの大学時代の友人であることは私も知っている。しかしその先の関係が遠すぎる。説明を受けてもそれが説明になっていない気がするのだ。

通りの脇の歩道を三人で歩いていた。手入れの行き届いた植え込みが青空の下に映える。店先にウッドデッキを張り出したオープンカフェに差し掛かっていたのだ。ガーデニングと云うのだろうか。鉢植えではない、ヨーロッパかアメリカ辺りが原産の草花を植えたプランター、そして外国の公園で見かけるような小綺麗なベンチがウッドデッキに置かれている。丁度その店先を通りかかる時だった。ある思いが頭を擡げる。

『そうだ、いつもカナエサンが隣で寝ているものと思っていたがそうじゃない、カナエサンじゃなく、このオトコが毎晩のように私の横で眠っていたのだ。何食わぬ顔をして...。』

その思い付きを確認することにした。男性に問い詰めたのだ。すると悪びれることもなく、男性はあっさりと認める。去年の12月、2008年の12月9日（あるいは12月3日。3か9である。）から毎日そうしていたと言うのである。

深い眠りに落ちているその間、見知らぬ男とカナエサン、二人の生活があの部屋で並行して営まれていたことになる。確かに私は右側を下にして寝ていた。左肩が痛むのである。五十肩だ。去年の九月から始まった。その痛みを感じる左肩を庇い右側を向いて、そう、カナエサンの寝ている方に背を向けて横になっていたのである。だからもう尚のこと後ろのことが分からない。私が目覚める朝までは別の夫婦生活が続けられていたとしても。それで目覚めたとき誰もいない日が続いていたのである。痕跡を残さぬよう計らっていたに違いない。今朝二人にとって思いがけず生じたこと。それは私の目がいつもよりずっと早く醒めてしまったことなのだ。

これは何か罰を与えなければいけないと頭で考えた。頭で考えねばならぬほど、私は一般的な怒り方を知らなかった。こういう時どうするのか。とりあえずカナエサンの顔を両手で挟んだ。強く、ぎゅっと。

実物より小さな頭部になっている。長い髪の所為でニューギニア首狩り族の干し首にそっくりだ。子供の頃博物館で見たミイラ、その隣に展示されていた小さく萎んだ干し首である。それともう一つ、最近のことで見覚えがあると思ったら、それは眼鏡を掛けたカオリサン。彼女にとっても似てるのだった。

間が持たない。挟んでいるだけだとどこか不自然なのである。それでぺんと、頬を殴ってみた。

さて、次は男性だ。仕返しに相応しい行為とは何だろう。相手の嫌がる事、痛がる事をしなければならないと考えた。

ベンチが目にとまる。ウッドデッキに置かれたベンチだ。丁度そこに男性が座ったのか、それとも私が促しようやく座らせたのかどうだったろう、だらしない格好で男性は浅く腰掛け、背もたれに寄りかかり両足を前に投げ出している。

その投げ出された足の左脚、足首を掴んでいた。そして相手の膝が曲がらないようぐいっと引き上げる。股裂きの要領である。伸びきった左脚をそのまま男性の顔の方へ押しつける。

変なことをしてると自分で思う。もっと他の懲らしめ方があるはずなのに、それが思い付かない。ともかく今は力任せにぎゅうぎゅうやってる。残念な事には、男性がちっとも痛がる素振りを見せてくれない、むしろ寛いでいるようにさえ見えるのである。

間の抜けた仕返しをしている自分が滑稽だろう。それでもそうするより仕方なかった。

私は去年の12月9日からずっと騙されていたわけだ。右側を下にしていなければ、こうはならずに済んだだろうか。

2009年8月2日