奥多摩湖
奥多摩湖
私はもう少しで奥多摩湖畔に出るところまで来ていた。
これから入って行くのは、湖畔へ出るためにどうしても通って行かねばならないトンネル、最後のトンネルだ。
実際足を踏み入れてみると、トンネルというよりは地下鉄の入り口みたいだ。階段を降りるようになっているし、外から見たときは、山肌からぽっかりと、暗闇が口を開けたふうになっていたはずなんだけれど、中はちゃんと蛍光灯がついている。だから、それもあって、地下鉄の入り口と感じるのだ。
階段を降りながら私は、このトンネル、いや地下道の構造を想像している。それはこんな具合じゃないだろうか。この階段を降りれば、真直ぐな地下道になり、そして、しばらく歩けばまた次の階段、登りの階段が現われるだろう。ただおそらく、その階段は途中の踊り場のところで左右に枝別れする、そこで湖畔の左岸に出るのか右岸に出るのか決めなければならない。そんなふうに想像してみた。で、それはきっと当たっていると思う。
しかしそれにしてもこの明るさはどうだろう。蛍光灯の間接照明にしては明るすぎる。しかも、自然な明るさだ。採光窓があるのではないかと、上を見た。高い天井を見上げたとき、ここが地下道である、という認識を改めなければならないことに気付いた。天井の真ん中には、ウィーン構成派の装飾様式をみせる天窓があったからだ。シンプルな黒の枠縁によって、グリッド状に分割された乳白色の採光窓。ここはロースの、二十世紀初頭モダン建築の大広間だ。
当時の趣味を反映するように、真ん中にはプール状の長方形をした池がある。高さ一メートル、幅三メートル、奥行き六メートル程の、タイル張りの大きな水槽がしつらえてあると思えばいい。ずいぶん昔からそのままなんだろう。ゆらぐことのない水面を、水藻が覆っている。光沢を失ったタイルの表面は、ひびがはいり、そこに苔がむしている。テラスのように自然な解放感を持ったこの室内と、湿った陰気な池は不釣り合いなのだけれど、植物園の熱帯植物館を連想することで、そう馴染みの無いものでもないと思うのだ。私はこの、ほとんどが池に占拠されている大きな部屋をゆっくりと通過していく。
プールが終わったところ、出口、すなわち登り階段の直前で私は躊躇した。予想した通り、五、六段の幅広階段を上がったところには踊り場があり、左右に別れる階段が見える。けれどそれより、出口直前の床が水浸しになっていて、そこを飛び越せるかが問題になっている。靴底を濡らすほどのもので、さして気にするものでもないのだけれど、できれば飛び越して行きたい、と考えている。プールの縁に立って、ぴょんと飛べば、出口階段の始まる、乾いたコンクリート床に飛び移ることができそうだからだ。そこまで行けば、あとは踊り場でどちら側の階段を登るか決めればいい。ともかく私は奥多摩湖畔に出ることができる。湖にさえ出ればいいわけで、湖畔の北側だろうが南側だろうかは、きっとどうでもいいことなのだから。それより今は、この湿った床をなんとか飛び越えてしまいたい。プールの縁に立ってから、ぴょんと飛び移る。できればそれだけで済ませてしまいたい。
けれど問題はあの緑色のかたまりだ。
そいつは湿ったコンクリートの壁面にへばりついている。私が飛び移ろうとする段差の側面にへばりついているのだ。
拳一回りほどの大きさは、ちょうど空豆をでかくしたようにみえる。みずみずしく、鮮やかなグリーンをしているけれど、間違えてはいけない。それはけっして植物なんかじゃない。私はそいつの事をよく知っている。そいつは体内に水分を取り込んで、肥大化し、むくんでぱんぱんになっている仮死状態のカエルだ。
手足を、そのぶくぶくになった体の中に埋め込んでしまって、とてもカエルには見えないのだけれど、それが彼等の狙いだ。よく見れば、開いたままで凝結した、鈍い鉛色した目玉が二つ、体の模様に紛れてくっついている。彼等が生きて活動しているときはぶよっとした触感も、こんな状態でもしそれに触れたならとんでもないことになる。水分ではち切れそうになった薄い皮膜がさっと破れ、中から、水と混じりあった体液がじゅっと流れ出てくる。仮死状態でじっとしているそれを、誤って潰してしまうなんて、そんな嫌なことはない。それを見るのはとても不快だ。身の毛の弥立つことだ。
こんなことで躊躇するとは思わなかった。私の予想通り、左右に別れる階段が確かにある。だから、そこまで行って、その踊り場でどちらかを選択する、そんなとき迷うかもしれない、とは思っていたものの、今はそれより、この緑色のかたまり、仮死状態のカエルが恐ろしい。本当に、どうしようもなく恐ろしい。艶やかな緑色の薄い皮膚が破れて、どろっとそいつが崩れていってしまうところを想像すると、考えるだけでぞっとする。そしてまた、そんな予感は大概当たってしまうものなのだから。
奥多摩湖へ通ずる最後のトンネルの中で、私はそれ以上は進めなくなってしまった。
一九九五年 二月二三日
1995年2月23日