私は家内と新しいゲームを作っていた。チェスや将棋のようなゲームだ。碁盤の上に駒を並べるのだが、その駒を何にするかは決まっていなかった。結局、動物のミニチュアを駒にすることにした。その動物のミニチュアとは、私が子供のころ遊んだお気に入りの玩具で、手に入りにくい高価なものだった。香港製の偽物ならその辺の町の玩具屋で扱っていたけれど、本物は一流百貨店の玩具売り場でなければ手に入らない。子供ながら私には本物と偽物の区別がすぐついた。安価なビニール素材の偽物は作りも雑で、本物のイギリス製は、素材のせいか、どこか落ち着きと風格のある仕上がりで、それが子供にも伝わってくる。馬、ライオン、象、それらを一つづつ買ってもらうのが楽しみだった。
そんな私の過去の宝物をゲームの駒に選んだのはよいが、そのひとつひとつの役割を決めてやるのには時間がかかった。どうしてもその動物の象徴がゲームのシステムに影響するので、象徴と機能の対応関係の調整に手間取ったのだ。家内の意見を取り入れたりもしただろう。例えば、ゴリラとシープドックが対等の力関係を持つ、とか。ともかく、その時は結構納得して、動物をその駒の役割に対応させていった。
ルールを整理し、駒も決まった、さあやってみよう、と思ったとき、二人は現われた。K氏とヤツマヤ嬢である。
K氏はどっかりとゲーム盤の前に腰を降ろすと、早速やり方を聞いてきた。
「どうやってやるんだ?」
私が説明するより早く、秘書のようにK氏の横に立つヤツマヤ嬢が、マニュアルを片手に説明しだす。それは、さっき家内がていねいに書き上げた小冊子、このゲームの遊び方が丹念に記された説明書だ。二人は、私と家内が苦労して作り上げたゲームを横取りしている。
いつもこう。K氏はこんな風に私たちが作ったものをいつもさらっていってしまう。せっかくこれから家内と二人で、のんびりゲームでもして過ごそうと思っていたのに。
がっかりしたのだけれど、しょうがない。しょうがないのだ。こうするのが彼の仕事で、間違っても悪意でやっていることじゃあない。私たちの準備があって、初めて彼がいきてくる。ゲームを作るのは私でも、実践するのは彼だ。彼がふさわしい。そんなこと最初からわかっていたことじゃないか。自分に言い聞かせ、自分を納得させている。
室内だと思っていたその場が、どうもそうでないらしいことに気付いたのは、振り返ったときだ。K氏とヤツマヤ嬢はいつのまにか消えてしまい、例のゲーム盤だけが動物駒を乗せたまま、Zライトに照らされている。雪で作られた台、テーブルの上に、ライトで照らされ、そこだけがぼうと浮き立っている。いけない、このままだと電球の熱で雪が溶け、ゲーム盤が駒共々崩れおちてしまう。せっかく作ったゲームがぐちゃぐちゃになってしまう。
そのZライトは、私の仕事場で使っているのと同じものだった。全体が黒のつや消しで、アームが折れ曲がり、角度が自由になる照明機具だ。仕事場でコンピュータ・キーボードの手元照明に使っている。ずいぶん古いもので、もともとはピアノの上にしつらえて楽譜を照らす物だった。姉がアップライトピアノを買ってもらった時、一緒にやってきたものだから、そうとう前から家にあることになる。別にそれでなくても構わないのだが、どうした訳か今でも使っている。考えてみれば、私も昔はピアノの前で仕事をしていたのだから、今はコンピュータを照らすこのZライトは、私の仕事をずっと照らし続けてきたことになる。けれど今度は、ゲーム盤に光をあてている。ゲーム盤を引き立たせるのはわかるが、肝心の台、雪で作られた台は、その強力な電球がもたらす熱で溶かされてしまうだろう。台が崩れてはもともこもない。いったい何の為にわざわざZライトで照らしているのかわからないことになる。
多分歓声に釣られてそっちを見たんだと思う。右手の雪原には氷のはった大きな湖があり、そこではみんなが楽しそうにスケートをしているのだ。こんな寒い夜だというのに、賑やかに皆がそろって氷上を滑走している。Oがいる。Sがいる。MもYもいる。みんなそろっている。私の目の前を風のように通りすぎて行く彼等。私の視線はそのスピードについてゆけないのだけれど、彼等の笑顔だけは、その瞬間だけは、脳裏に焼きついてゆく。とても楽しいのだ、きっと。明るく、誘い込むように、一人一人が私に微笑みかける。SやO、Yと、次から次へと、皆ものすごいスピードで私の周りを滑りぬけてゆく。気付くと私も、ゲーム盤の事をすっかり忘れ、一緒になって滑っていた。
なんというエクスタシーだろう。私たちはとても興奮している。雪を投げあったり、絡み合ったりしながらも、互いの心を感じ合っていた。どんどん、どんどん、私たち一人一人の体温は上昇していった。熱が発散され、もうここが氷の上とは思えないほど、熱くなっていた。だからかどうかわからないが、ふと見ると氷が溶け初めている。さっきまで白く曇った、厚い氷で覆われていた湖が、薄く透き通った氷板が所々に浮く、浅い水田のようになってきている。その事をだれも気にしていないようなので、私はYを探しながら大声で叫んだ。
「火の用意はできているのかぁ?」
岸に火など見えないのだから、聞くまでもないことなのだが、私はたき火の用意くらい当然してあるべきだと思い、Yに向かって叫んだのだ。Yがどこかで私の声を聞きつけ、「してませーん」というのを、やっぱりな、という思いで受け取った。いかにもこのグループらしい段取りの悪さ。これにいつも泣かされるのだ。きっとこの遊びに尽きたとき、湖から上がったら、皆寒さで風邪をひいてしまうだろう。雪の中、岸でぶるぶる震えながら火が起きるのを待っているなんて、絶対避けるべきだ。そして、そういうことをちゃんと予測して準備しておくのがYの仕事のはずだ。それを、そんな事を私に言わせること自体が間違っているんじゃないか。
しかしそれにしても、他の人はそんなことをまったく気に止めてないらしく、相変わらずはしゃぎまわっている。もう氷はすっかり溶け、膝まで泥水に漬かりながら雪合戦のようなことをしている。私たちが激しく動き回ることで熱を生じさせ、この湖の厚い氷を溶かしてしまったのだ。身体から湯気が出ている。みんなの身体からも、動く度ほわっと白い湯気が立ち上っている。みんな夢中だ。こんな雪原の湖で、どんなに水浸しになったところで、きっと平気だ。この熱い身体さえあれば、どんどん湯気になり蒸発してゆくじゃないか。そう思うと私は、あのゲーム盤のことも焚き火のことも忘れ、みんなと一緒になってバシャバシャと水をきって走り始めた。なんて楽しいんだろう。この興奮を伴う集団の雪合戦=泥水遊びは、私に本当の満足を与えているのだ。こうしていることがうれしい。熱を帯びたこの身体が感じる充実感は、私の全てが解放されてゆくことだ。この上もない喜びで、私はぐるぐる目が回ってゆく。ぐるぐる、ぐるぐると。
ただ、不思議な感覚なのだが、今であると同時に、今のこの状態、今体感してる事自体が、どこかしら懐かしく、遠く過ぎ去った事のようにも感じられることだ。懐かしい人々、懐かしい仲間たちと、あのころよくやった遊びを思い出しているようにもとれる、そんな感じだ。
もしかするとこれは、いままでのこの集団についての印象、それをまとめてみたものなのかもしれない。それで、これからはもう違う、この先はもっと違う在り方をしていくだろうという、自分の発する暗示なのではないだろうか。
これを境に変わってゆく。今までのことをこうやって、夢の形で私が名付けてしまったのだから、きっとそうだろう。おそらくここまでが区切りになる。そして、もうこれから先は違った在り方をしていくはずだ。それがどんなものか、今はわからないけれど。ともかく一つの時期が終わったのだろう。
一九九一年秋