山梨の立ち寄り湯

夜も更けてきた。カナエサンと二人だけで岩風呂に入っている。山梨の立ち寄り湯へ来たのだ。

天井からむくむくと生き物のような形をした岩が大きく垂れ下がっている。そこからはじわじわと、硫黄分を含んだ湯が滲み出し、岩全体が黄色がかった乳白色に輝いている。そうか、龍の顔に似ているな、とその岩を見て思うのだった。

温泉旅館ならこのまま部屋へ戻って寝てしまうところだが、今日は日帰りのつもりだ。しかし心地よい湯船に浸って、すっかり眠くなってしまった。このまま眠ってしまってもいいとまで思っているようだ。

そんな二人だけの静かな湯場に、見知らぬ男が一人で入ってきた。服を着たままである。何か、私たちに用があるのだろうと、その素振りから覗えるのである。湯煙でぼんやりしたその男の輪郭がこちらへ向かって話しかけてくる。

「あの、これからここに、家族や親類とか、全部で百人ほど来るんですが、いいですか。」

男はことわりを入れに来たのだった。

しかし、いいですか、と急に言われても困る。いくら何でも百人はないだろう。この場所にそんな人数が収まるのか訝ると同時に、百人も身内がいるという話と、更にそれが立ち寄り湯に全員揃うなど、二重三重に訝しく思わざるを得ないのである。しかし曇った大きなガラス越しに外庭を見ると、日中の明るい日差しの元、幾人もの若い男女が、おのおの、その外庭の芝を散策している様子が覗える。恐らく、待っているのである。先にことわりを入れに来た男の、その返答、私たちの許可を待っている様子なのだ。

「ここは公共の温泉場ですよねぇ。そこに一族が集まるなんてのは、ちょっと非常識じゃないですか。」

はっきりとそう言ったはずだ。湯気の向こうのぼんやりとした輪郭に向かって、苦言を呈したはずなのだ。ところが。

丁度天井の、蛍光灯の光源を背に立っているものだから余計、はっきりと見えないが作業服のようなものを着た男の、そのゆらゆらとした影は、静止したまま動かないのである。聞いたのか聞こえないのか、何の返答も無いのである。

いいよ、もう出よう、とカナエサンに促されたのではないだろうか。はっきりとしないまま、私たちは湯場の隣に設けられた休憩室へ移っていた。男は結局親族を呼びに行ったのだろうか。私たちが湯場を後にしてから、岩風呂は人気が失せたままである。多分、そう時を置かずして、ぞろぞろとやってくるに違いないのだが。

ところでここは、湯場の隣室だから休憩室だと思っている。だが部屋の様子だけ見れば賃貸マンションの一室である。小さな会社が事務所代わりに賃借している、味気ない、中途半端に生活臭の漂う事務所、そんなマンションの小部屋そのものだ。そこにカナエサンと二人、湯上がりでも、正に、待機していた。ここからだと風呂場へ向かう人の出入りがよく見えるのである。私たちが出てからは、まだ誰も来ていない。

しばらくすると、寄り添った若い二人の男女が風呂場へ向かう、その姿を見かけた。先程の男の親族かとも思ったが、どうやらそれとは関係の無い一般客のようだ。好いた同士なのだろう。何も知らず、二人で静かな温泉に浸れると思い込んでいるに違いない。確かに今は静かだが、じき、大勢の一家、大家族と呼ぶにも多すぎる程の老若男女に埋もれてしまう。他人事でも少し気の毒に思いながら、脱衣所へ向かう二人をぼんやり見つめていた。

そんなぼんやりとした、他人の成り行きについて空想している緩やかな感情に対して突然、垂直方向に何か、急激に落下してきたような、あるいは唐突に下から突き上がって来る鋭い隆起のような、罅、ピークが、瞬時に翔る。

　あっ、ニイカを置いたままだった.....

　

ニイカと一緒に温泉へ来たのだった。湯場に、連れて来たニイカを置いたままにしている。忘れていたのだ。ニイカは神経質な犬だ。他人や場所に慣れず、脅える。そのニイカを洗い場に置いてきぼりにしている。今、思い出したのだ。それで慌てて風呂場へ引き返す。

中庭からガラス越しに、柔らかく陽が差し込んでいる。その日溜りの中にぽつんと、籐で編んだ籠が一つ置かれている。脱衣所の、脱いだ服を入れる籠だ。一つだけ離れて、陽当りの良い床に取り残されている。近付いて籠の中を覗くと、バスタオルを敷いた上にニイカが丸くなって寝ている。クウクウと寝息を発て、眠り惚けている。これなら誰が来ても気付かないだろう。

ほっとして私はニイカを、そっと抱き抱える。お腹が少し湿っているようだ。どうも体温も少し低いような気がする。乾かしてやらないといけない。休憩室へ戻って、カナエサンとドライヤーでニイカを乾かしてやろうと思っている。その時同時に、遠くの方から、そう云えばニイカは先月、死んでしまったんだと、分かりはじめていた。

2008 3/6

山梨の立ち寄り湯