千葉の方

夜の野外特設会場。まだ深閑としている。セッティングが一段落したところだ。ここは千葉の方、房総半島内陸のどこかの街、そこでイストベッドのライブコンサートがある。今までにない大きな規模だ。広い会場は住宅と田圃に囲まれている。背もたれのない、横に長い縁石のような腰掛けになるベンチが何列も暗闇に沈んでいる。仮設舞台の上だけ作業用の白熱灯で所々照らされている。グランドピアノ、ベースアンプ、マイクスタンド、モニタースピーカーやらP.A装置。ドラムス以外のセッティングは済んだようだ。これから照明の吊り込みと、あとヒロアキがドラムセットを組み上げれば音響チェックに入るだろう。そうすればそのまま、リハーサルになる。その前にステージ衣装に着替えておこう、そう思い立ち私は舞台を降り、こうして観客席の中程から舞台を眺めていた。

白のワイシャツ、黒のズボン。今着ている服だ。これは喪服だった。駅前の紳士服量販店で購入した安物。OKIEさんのお父さんが亡くなった時だった。葬儀に参列するため急場凌ぎに買ったもの。もう数年も前のことになる。頻繁に着用することになるとは思ってなかった喪服、それを今日も着ていた。実は衣装も似たりよったりだ。結局白のドレスシャツと黒のパンツを履くだけなのだから、これでもいいか、とも思えてくる。ワイシャツの裾をズボンに突っ込まないで、出してしまえばなんとかなるかも、とやってはみたものの、どうもだらしなくなるだけ。それにワイシャツはどこまでもワイシャツで、ドレスシャツとはほど遠い。ズボンもそうだ。同じ黒でもこれは、やはり喪服の黒なのだった。着替えなくてはならないだろう。

面倒だったのである。楽屋の代わりに用意されたアパートまで戻らなくてはならない。

そのアパートはステージ真正面の位置にある。ここからもその見窄らしい二階建て木造モルタルアパートが見えている。位置だけはコンサートホールのオペレーションルームと同じだ。今は明かりもつけず暗く沈んだガラス戸、二階の部屋の一室の、表面になにやら文様を施され敢えて透過性を落とした安アパート特有のアルミサッシ、そこを開け広げればきっと、遠く舞台正面を見下ろす絶好の位置になる。ただそっちは高台になってるし、途中に民家を挟んでる。道は入り組んでいる。そこまでたどり着くために回り込まなくてはならなかった。正面に見えるわりには遠く感じる場所にあったのだ。そこまでの暗い田舎道をとぼとぼと独り、歩いてゆく。

もうヒロアキのセットが組上がり音響チェックになっているようだ。早く着替えて戻らないと、リハーサルが始まってしまう。

田舎道を真っ直ぐ行くと路地に突き当たる。街路灯に照らされたその狭い路地の右手角に車が停まる。左の方からやってきてそこに停車したのだ。珍しい車だった。スポーツカーだ。昔の外車だろう。２ドアクーペ、いや、リフトバックというのだっけ。ねずみいろの綺麗な車体。斜め後ろから、その美しい流れるようなラインに見とれている。ただ運転していた男には失望した。乗っている男はここから見ただけでも品の無さが分かるのだった。若い、今の言い方だと「ヤンキー」という表現が適切だ。オンナ、カノジョ、いや「ギャル」でも迎えにきたのだろうか。高速のおかげでここも東京近郊になる。こういう希少な車を所有して、夜遊びする連中が多い所なのだと思う。

私はその路地を車が来た方、左へ向かう。急いでいた。

そこはちょっとした住宅地だった。街路灯が等間隔に並んでる。その明かりで見えるのだが、あれは黒のスリムジーンズ、後ろ姿の美しい若い女性が右前を歩いている。マキナに見えた。背格好はあんな感じだ、と思いながらもそんなはずはないと、どこかで決めつけている。今回の企画を考えれば全くないわけでもなかった。でも恐らく私の願望が、後ろ姿にマキナを見せてしまうだけだろう。きっとマキナではない。

追いつきそうだった。女性の一人歩き、夜道で背後から迫るのはどこか後ろめたい。しかし急いた歩幅が間を詰めてしまう。

その人はたしかパパタラの若い美術スタッフだ。やはりマキナではなかったのだ。最近メンバーになったばかりの、あまり面識のない子。私がやめてもう十年になるだろうか。随分人が入れ替わった。

追い抜き際に向こうから声をかけられる。彼女は親しげに話しかけてくる。ところが残念なことに、彼女の親密な態度に応える余裕が私にはなかった。簡単な挨拶だけで済ませてしまう。そしてやっぱり、ワイシャツの裾をズボンから出してみたのだ。暑かったのかもしれない。

狭く薄暗い畳部屋だ。雑魚寝のあとがみられる。アパートの一室に着くと、そこは若いスタッフたちで一杯だった。豆腐屋の阿部さんまでいる。

フナの解剖で同じ班だった阿部さん、小学四年生のクラスで一緒だった阿部豆腐店の娘さんだ。五年になるときクラス替えで別れたまま、確か途中で転校してしまったのではなかったか。店も畳んで、覚えていないが家の事情が何かあったような気もする。お父さんが亡くなったのだったか。いや記憶違いか。容姿のことでいじめを受けてると後で小耳に挟んだような気もする。会社員の父親を持つ家庭が多かった中、商店を営む家の子が多少異質に感じられる雰囲気はあった。それにちょっと太ってたし、確かにどこか野暮ったかった。勉強もそんなにできなかったと思う。でも私には気さくで面白い子に見えていた。一度家にあがったことがある。バス通りにある木造の古い小さな家だった。店舗の二階が家族の部屋になっている。開けっ放しの押し入れに布団が入ってて、畳の狭い部屋だった。理科の授業、フナの解剖で同じ班に割り振られたのがきっかけだった。それで仲良くなったのだ。今思えば短い期間だったろう。数ヶ月かもしれない。そんな彼女とは、その後の私の人生に何一つ関わることなく、ぷっつりそこで切れている。

その阿部さんがいる。当時のままだ。誰だったっけ、ああたしかあれは、阿部さんだ、と思ってる。そこにいることに全く不自然さを感じずに。

出しっぱなしの布団だけでなく、畳の部屋はスタッフの荷物で一杯だった。放置された衣類がやたら目に付く。部屋に入った直後の、最初の印象よりずっと増えている気がする。部屋全体がどんどんごちゃごちゃになっていくようですらある。持ち込んだ私の衣装がどこかに紛れてしまって簡単には見つからない。焦っていた。もうすぐリハーサルが始まってしまう。着替えを早く済ませないと。

関係ないものばかり出てくる。グレーのネクタイやら、今日は着ないで置きっぱなしにしてた喪服の上のスーツとか。見つけたものから片っ端にとりあえず袋に詰め込んでいく。風呂敷のようなものだったか、その袋も何かの代用で、下が閉じていない、袋状になってない。詰めればそのまま下から出ていく、用をなさないものだったりと、紛らわしいものばかりが周りに散乱していく。肝心な衣装が見つからない。シャツもパンツも出てこない。

しかしふと見ればそこに練習用キーボードがある。

畳の上に、置かれている。

衣類の山に隠れていたようだ。気付くとそこにある。ピアノ代わりの簡易キーボードを持ち込んでいたのだった。そのことをすっかり忘れていた。

記憶が整理されると同時にやり落としていたことが浮かんでくる。今日のコンサートのことをOKIEさんに伝えていなかった。OKIEさんには来てもらいたかったのだ。京成小岩からならここも来易い。いつも誘いにのってくれないOKIEさんでも、ここになら足を運んでくれると思っていたのに。もう随分会っていない。こんなことでもなければ彼女に会うこともない。

だがしかし彼女だけではないではないか。今回のコンサートを誰にも宣伝していなかった。友人、知り合いには声をかけるべきだったのに。観客動員は大丈夫なのだろうか....。不安がよぎる。

衣類の山から衣装を探している。シャツもパンツも見つからない。そして動員も気にかかる。果たして客は入るのか。

と、そこで、ぞっとする。

気付いてしまったのである。スコアを忘れてきたことを。

カメレオン・ガーデンのあの部分は暗譜していない。構成はヒロアキに聞けば確認できるだろうが、楽譜がなければ弾けない。この分では本番で確実に間違える、ちゃんと演奏できない、私の演奏がそこで止まってしまう。

怖くなってきた。どうすればいいだろう。今から家に戻る時間はない。

衣装どころではないのだった。

千葉の方

2011年8月7日