2007年9月14日
2007年9月14日
夏休み。もう随分長いこと山形に逗留していた。学生と遊んでいたのだ。いい加減東京に帰らなくてはならないと云うのに、私は今から更に仙台へ行こうとしている。
九月の青い空が美しい。もう峠を越えて、川崎も過ぎている。
カメラ(CL)とか着替えの入った荷物は山形に停めたままの車内に置っぱなしにして(内心そのことを気にかけながら)身軽なジムニー三輪車で仙台へ向かっている。
ジムニー三輪車は変わった乗り物だ。いや乗り物とはいえないかもしれない。どちらかと云うと私の身体に付帯しているようなのだ。走らせ方はまず、自分の足で走る。勢いが乗ったところでギヤを1速に入れて駆け乗る。そして、同様にして2速、3速とシフトアップしてゆく。
前後車に挟まれている。白のライトバンが先導しているかたちだ。そしてもうすぐ仙台直前の切り返しにさしかかる。そこは国道が未整備でまだ道が一本に繋がっていない。あみだのように何度か道を切り替えなくてはならない。前を走る白いライトバンは一つ目の曲がり角を正しく曲がったものの、次の左折箇所を間違え、一瞬道のようにも見える袋小路、今はただの駐車場になっている空き地へと入ってしまった。そこで私が先頭車両になったわけだが、前の車が間違えてくれたお陰で、ジムニー三輪車を思う存分走らせることができると、内心ほくそ笑んだのである。
次の角を左に曲がり、後はややこしいが、また右折して道を切り替えれば、ほら、ここからでも高々と掲げられた国土交通省の道路標識が見える、国道の本線へと戻るように繋がるはずだ。そしてそこから真直ぐ行けばもう仙台だろう。
左手に埠頭が見える。その向こうには、既に夏は終わっていても、それでも今日の天気の所為で眩しく輝く真夏さながらの海が広がっている。
その左手の埠頭方向に道が回り込み、次には右折しようとする直前のカーブでコノミエコさんの事が脳裏をよぎる。卒業後ずっと東京に暮らしていたコノミエコさんが、去年から実家のある仙台に戻ってしまった。
やっぱり電話しておこうかな。折角仙台まで出るのだから。
三太の顔が浮かぶ。彼をはじめとした仙台組とコノミエコさんは繋がりが無い。一緒に会うわけにはいかないだろう。しかし今からなら、ほんのちょっとでもコノミエコさんと会う時間もありそうではないか。
日差しが西に傾いていた。西日の直に当たる建物が、澄んだ青空を背景に蜜柑色にくっきりと浮き立っている。次の角を右に曲がれば橋の入り口で、その橋を渡れば仙台市街に入るはずだ。
ところがどうもその橋の様子が国道の続きには思えないのである。車道と云うより観光用の吊り橋なのではないか。後続車が付いてこないのは私が飛ばし過ぎたからなのか、それとも、注意はしていたが一本手前の角を見落とし、そちらを右折するべきで、後続車は正しい道筋を進み、私だけが逸れてしまったのか。先程目にした道路標識もこの橋の上には見当たらない。橋はあからさまに二つのレーンに別れている。右側は動く歩道が設置されているようで、車の進入はありえないだろう。左側も狭く、対向車が来ればすれ違うことは出来そうにない。しかもそこすら、数人の観光客が歩行者優先道と言わんばかりに、のんびりと道の真ん中を歩いている。そんな橋の様子から私は進入を躊躇したのだが、仮にこの橋が正式な国道でなかったとしても、恐らくは国道と平行する橋である事に変わりはなく、またジムニー三輪車という、乗り物としては限りなく身体に近い、云わば走行補助具であることを考えれば、このままその橋を渡ってしまっても問題ないだろうと判断したのである。ジムニー三輪車は徒歩と乗り物の中間物なのである。
揺れが激しいのは吊り橋の所為だろうか。あるいは道路工事中の仮設鉄板、その継ぎ接ぎだらけの鉄板が揺れを激しくしているのだろうか。普通の車なら徐行するこの橋の道をジムニー三輪車はどんどん進む。いや、進むと云ってもほとんど自走しているのだが。
ジムニー三輪車と私の身体はウエストポーチに付いているプラスティックの留め具のようなもので固定するようになっている。しかしこの留め具の役割は、身体の固定だけではなく、三輪車を駆動させる際に重要な機能を担っているのである。はじめは留め具を外しておかなくてはならない。その状態で自分の足で走りだす。そして勢いが付いた所でシフトレバーを1速に入れ、半クラッチ状態からクラッチをミートさせる。その時、クラッチが繋がったらタイミング良くカチっと留め具を填める、という具合なのだ。
ところが先程からその一連の動作が上手く行かず、勢いを付けて自走するばかりの、結局は自分の足で走っているだけの状態が続いた。駆け足の速度と1速というギア比が合っていないのかもしれない。低速ギアだと抵抗が強すぎるのだろう。試しに2速でやってみようとしたが、間違えて3速に入れてしまい、余計上手く行かない。
そうやって橋の半ばを過ぎたころ、肝心な橋という存在が曖昧になってきた。海の上を渡るどころか徐々に浸水し、橋そのものが海中へと没していく。気付くと橋の欄干にあたるロープが、よくプールで見かけるコースロープ、青や黄色の浮き具の付いた綱になっていて、海中へ身体を浸しながらそれに掴まって進んで行くという始末なのである。自動車に乗っていたら車体ごと沈んでしまい、とてもこんな芸当は出来なかったろう。ジムニー三輪車で良かったと、胸をなでおろしている。ジムニー三輪車は、使っていない時には、ただのウエストポーチでしかないからだ。
しかしはたしてこのような橋が観光客一般に受け入れられるものなのだろうか。服を着たまま海中に身を沈めるなど、誰しもが当たり前のようにやり過ごすとも思えない。そんな想いが過った頃もう対岸の岩場に近づいていたが、私は自分の後ろに誰か続いているか気になり振り返ってみた。するとすぐ後ろで見知らぬ女性がロープにしがみついていたのである。
長い髪の、顔立ちの地味な女性。その黒髪と細身の体にまとわる濃紺のワンピースがゆらゆらと、波に揺られた大きな海草のように見える。化粧が落ちているからか、年齢が分からない。老けて見えるが、案外若いのかもしれない。その女性は明らかに水を怖がっている。きっと泳げないのだろう。ロープに掴まるだけで前に進めずにいる。その溺れかけた様が滑稽だったが、私は彼女に助言するのだった。
「波が引いた時に進み、波が来た時は待つに限る。」
と彼女に告げると同時に、ゆっくりと波が押し寄せてくる。
「ほらね。」
波がロープに掴まった私達を下からぐうっと持ち上げる。更に波は海面からぽっかり出ていた顔をも飲み込もうとする。波による浮遊感が三半規管を狂わせ、海面と海面から突き出た岩が視界のほぼ上部を埋め尽くす。こんな時は気も動転するし、海水の抵抗力が前進を妨げる。ほんの暫く待てばいいのだ。すると波が引き、引かれる時の力を利用して前へと進む。腕に力を込め交互の手でロープを引き寄せるように。
海の渡り方、その見本を示すことで私は、彼女へのささやかな優越を感じているのかもしれない。
もう少しで岸にたどり着く。その頃には見知らぬ女性の存在が意識から消えかかり、代りに、不特定多数の老若男女が後に続いているような気配がしていた。そして対岸の上陸地点まで来ると、そこに丁度良い入り口が待ち構えていた。アルミ製の四角い縁取りだけが岩場に設けられているのである。
ただ、その四角いアルミ製の縁が正方形ではなく、傾いで、菱形になっている。その垂直軸の狂った形はとても落ち着かない。入り口らしからぬ形状なのである。わざわざこんな形にするとも思えないので、これは自分が斜めから見ているだけで、正面からはちゃんとした方形なのだろうと推測する。だがともかく、そこを体ごときれいに入っていけば海を渡り切った事になる。
誰かが私に声をかけているような気がする。
「あともう少し。先に足をここに入れるようにして、」とか。
だがはっきりとそう言われているか、あまり自信はない。それより、ああ、もうちょっとで渡りきるんだ、という嬉しい気持ちがふつふつと湧き上がり、それと同時に今目にしているアルミの縁が妙にはっきりと見えてきた。
それは現実の、私の仕事場にある庭へと通ずる間口、そのアルミサッシに他ならなかった。西日の当たる庭が、その向こうにあった。どうやら仕事場の安楽椅子で眠っていたらしい。
2007 9/14