枕木のないせいだろうか。ここから見ていても、どうもレールらしきものはない。右手には車道と歩道を分ける植え込みがあり、時には住宅ぎりぎりをこの電車は走っていく。歪に塗重ねられたアスファルト。その路肩に、レールは潜り込んでいるのだろうか。
先頭の窓から顔を出し、路面を見つめる。かろうじて、細いレールの上を走っていることがわかる。ただ、運転手側の、平行してあるはずのもう一本が見えない。アンバランスなモノレール。実は車輪も少し変わっている。車両の下に付いているのではなく、支柱が前方に伸びていて、そこに車輪がある。もちろんそれは縮んだりもするのだろうが。緩やかな左カーブにさしかかったときわかったのだけれど、もう一本の見えないレールは直角に左へ曲がっていて、瞬時にそちらのレールに右車輪が乗り変わる、そこをついて支柱のとびだした方の左車輪がまた元のレール上をトレースする、という仕組なのである。踏切とか路面電車の線路とか、道とレールの境目が曖昧になっている部分。そういえば、昔からそんな中間地帯が私は好きだった。
コレマサ線は、武蔵野の面影を残すこの井の頭公園に沿って、終点の吉祥寺へと向かう、単線の古い鉄道だ。外見は新しく、黄色にグレーの線の入った、いわゆる西武線特有のデザイン。ただ、中は古めかしく、昔の客車独特の、ワックス臭い木造の床、人間工学以前の、垂直に仕切られた木製の背もたれと椅子。そこを、ビロードの青布張り。盛り上がった中身を押さえ付ける紺色の鋲。木を素材とした時代の工業製品は、今日で云うところの自然さとか暖かさはなく、かわりに重々しく、威圧的だ。アルミやプラスティックと違い、近代工業に対して従順ではない。
始発駅で乗った時はすでに周りは暗かったように思う。けれど今は日暮れ近くだ。秋の、薄曇りの、こんな井の頭公園こそ、この素朴な電車の窓から眺めるにふさわしい景色はない。そういえば前二人でこの公園を散歩したとき、こちらのほうには来なかったっけ。中心の、池のある方ばかり歩いていた。知っていれば、このコレマサ線沿いの、公園のはずれあたりを二人で歩いたのに。そんなことを考えていると、ふと向こうの原を散歩している自分とあの人を見留めたような気がした。でも本当に見ているものは、線路に平行してある小川。人工のものとは思うが、少ない水が所々植物や石を濡らしている。それが奇麗だ。
もうあと少しで着くあたりだった。公園がきれて住宅街にさしかかった処。電車の最後尾にいて物思いに耽っていたせいもあるのか、幾人かの連れ添いと一緒に電車から取り残されてしまった。騒いで何かにつかまって乗っていると思っていたら、前方をさっきまで自分たちの乗っていた車両が遠ざかって行くではないか。落ちた訳でもなく、ただ、何のこともなく、私たちは地面に、道に、おいてきぼりをくらっていた。あともう少しで吉祥寺だというのに。
歩くにはまだあるはずだ。賑やかな街の気配がしない。閑静な住宅街。りっぱな、古い、間口の大きな家が何軒かある。一緒にいる誰かが、道を渡って左手にある、木造の家屋(実は喫茶店なのだけれど)に入ろう、という。この辺はお屋敷のような風体の店、レストランとか喫茶店などが多いことは知っている。でもそんな店は看板を出さないから、本当に住み家との区別ができない。この店も前二人で来た時は、ただの人家だったと思うのだが。その時も店だと思い入り間違え、今また間違えて入ってしまった、と思っていると、どうもやはり店をやっている。喫茶店らしい。あのときも結局は二人で茶を飲んだような気もしだし、人間の記憶なんかあてにならないものだな、と思う。でも、同時に、今見ている木製のボロテーブルに着く私とあの人を、空想で見ているような、曖昧な感覚もある。私の正面で紅茶茶碗を口元へ運ぶあの人。その映像は過去の事実というより、今という時間から逆に再生された、都合のいい想出なのかもしれない。
この店のオーナーは、以前転形劇場で中心的な役を演じていた俳優さんだ。渋い、骨太の、年配の男優さんとは、私も何度か会ったことがある。そのせいもあるのだろう。何種類ものつるし紐をつけた公演チラシが、入り口脇にある作り付けの台の上にのっている。お客さんも演劇関係の人が多いのかもしれない。木造校舎を改装したような店内奥のほうに私たちは着いた。段差ができ、そこから先は、店の人しか出入りしないような雰囲気のある廊下へ続く、その場所近くの、すみっこにあるテーブルに着いた。柱に寄りかかることもできるこの席は、客が一人もいなければ、誰もが真っ先に選ぶ場所だ。小さな、真ん中のひびが進み、割れて、下が見えてしまう木の机。そこに多分四人、私を含めて四人座っていると思う。
この店にきたなら野菜ジュースを飲むべきだと勧められ、私はそれを注文した。だから今、目の前の小さなグラスに入ったキャベツ色の、表面だけ少し透明になった見慣れぬ液体をくびっと口にする。確かにうまい、のかどうかわからないのだけど、めずらしいことは認める。でも結局はこれをたのんだのは私だけで、テーブルの上の、もう一回りだけ大きいグラスの中は、薄い赤みのかかった、杏酒のような飲み物が置いてあるのだから。私に勧めた張本人も、どうも違うものを飲んでいるようだ。正面に座るその人は私の父。伏し目がちで静かに何か飲んでいる。
父がこの店にちょくちょく来ていることの方が不思議だった。ここの自慢の野菜ジュースを知っていることの方が、私にとっては遥かに不思議でしょうがない。だとすると、見えないけれど私の右隣に座っているのは母だ。父の隣には誰もいないけれど、きっと私の並び、母のその隣に腰を掛けているのは私の姉なんだろう。四人だったらそうに決まってる。ついぞ父以外顔を見なかったけど、きっとそうなんだ。
一九九四年 三月十日