はつか
はつか
晴れて、それでやるせないので、散歩に出る。
家のある四丁目から南へ向かう。太田黒公園の脇を通る暗渠、昔は大きな側溝だった遊歩道を抜けると、荻窪団地へ出る。60年代には賑わいを見せた団地も、今はほとんどの住人が退去している。一部取り壊しが進んで更地を囲むフェンスばかりが目立つ。
鼻紙を持って出るべきだった。
先週末はしゃぎすぎて、風邪をひいた。鼻汁が出て、垂れそうになる。それに、冷たく乾いた空気に痛みを感じる。
鼻腔に留まる汁が煩わしい。
団地を抜け、旧西田町の外れ、田端神社裏手の遊歩道、ここもまた暗渠である。
現在でもその地形は変わっていない。田端神社の裏手はすぐ、崖になっていた。崖、と云っても大した段差でもないのだが、それでも昔、神社の高台からその方角に目をやると、雑木の向こうに雑草に被われた低地が広がっていた。今は住宅が建て込んでいるが、その当時は駅からの距離もあり、まるで荒れ地だった。歩道などなく、ただ崖下に僅かに人家があった。高台の神社の表側を通る小路を歩いていた時だ。枯れ草に被われていた記憶があるから、季節は丁度今頃だったかもしれない。陽が西に傾いていた。母に手を引かれ、向かい風だった。
「あの向こうの崖下の家、あそこで人が白骨になって見つかったのよ。怖いわね。」
私はその屋で暮らす家族全員の骸骨を想像した。
普通に生活したまま息絶え、その状態で骨だけになってしまった人の放置された室内を想像した。そんな事があるのだろうか、と訝しんだ記憶がある。
そんな崖下の暗渠、遊歩道を歩いている。昔あったその凄惨な事件を、今ここに暮らす人たちはきっと知らないでいるだろう。
その暗渠が善福寺川へ繋がる場所が公園になっている。都立善福寺川緑地というのが正式名称のようだ。私たちは昔から善福寺川公園と呼んでいるが。
ポラニーもコルへもニイカも、みんなこの公園が散歩のコースだった。ニイカは昨年の夏から遠くへ行きたがらなくなり、この公園もニイカが死んだ直後、随分間を空けて懐かしさから足を運んだ。それから犬なしで、何度か来ている。
すっかり葉が落ちている。木々の枝払いも済んでいるようだ。十月に来た時、まだびっしりと蝉の抜け殻の付いたメタセコイアも、枝を落とされている。ただ一本、頼りなげにひょろっと延びた小枝の先に殻がかじりついている。いつまでそうしていられるものなのか、少し考えてみた。
公園は川沿いに続く。
尾崎橋。ここは五日市街道との接点だ。コルへもニイカも、この尾崎橋で戻るというのが定番だった。もっとも気が向くとまだ先を行く。さらに川沿いを進み和田堀公園、そして大宮八幡と足を延ばす事もあった。
今日は尾崎橋から五日市街道を選んだ。青梅街道方面、丸の内線新高円寺駅方面へ向かった。
尾崎橋から新高円寺の間、五日市街道は寂れた商店が続く。そこそこ商売が成り立っている様子はある。南阿佐ヶ谷にも新高円寺にもまだ遠い。近場で用を済ませるほどに、商店が残されているのだろう。
コンビニの前を通りかかる。置かれた雑誌の表紙がガラス越しに見て取れる。通り過ぎてから、視床に着いて、引き戻る。
「松島かえで」
小さく、食い込むような下着で、股を大きく開けている。
付け根の、その部分に窪みが見て取れる。
下着の形のその部分、際だった形状をしていて、僅かに陰り、その下の状態が可視化されているような。
どうしてここに惹かれるのか。何故これが視床に着くか。
馬鹿げているのだが、相変わらず女の脚に欲情する。
どうしろ、と言うのか。欲しい、と云って、手に入るものでもあるまい。見るだけ、見るだけで、その先なにがあるのか。交わりは感触に過ぎず、その脚なぞ視野の外に置かれるのに。
変な事を考えながら歩いていると、駅に近付く。青梅街道と五日市街道が分岐する交差点、新高円寺だ。
若い女が前を歩いている。道路の脇を、私とは相性の悪い歩調で女が進む。右手で携帯電話を操作している。メールでも打っているのだろう。だから歩みが遅い。追い抜きたいが、後方からは車が来る。しかしこれでは間が詰まるばかりだ。いたずらに若い女に近付く危険は避けたい。思い切って歩幅を広げ追い抜くと、シャカシャカと音がする。インナーイヤー式ヘッドフォンから漏れるmp3の音だ。
耳の中で音楽を鳴らし、目は液晶を見つめ文字を打つ。そうやって歩いている人に感心する。そんな事がよく出来るものだと感心する。すぐ後ろに車が迫っているのに。この人は後方が怖くないのだろうか。私にしてみれば後方とは、後ろめたさに通ずる実空間であり、また同時に過ぎた時間の堆積のようで、びくびくびくびくする「後ろ」でもあるのに。
追い越して、大きく車道へ割った私をさらに、乗用車が大きく膨らんで、迷惑そうに走り抜けた。
鼻汁はもう、引っ込んでいた。
2008 12/20 OKIEさんへのメール
これは夢の話ではない