ヘナ
ヘナ
「ヘナ」と書かれている。
黙音では「ヘ」が高く「ナ」が低い、と根拠もなく思い込んでいる。
では「ヘナ」とは何か。
カタカナ表記であるなら外来語ではないか。
それでも鮒を経由して「ヘラブナ」が視床に浮かび、次に「篦」を呼ぶ。だが「へら」ではない、「へな」である。「ヘレナ」という女性名も連想する。化粧品の印象が呼び寄せられる。
「ヘナ」とは何だろうと意識的になった時既に、その「ヘナ」という二文字を散々目にしていた。どこかで見ていた「ヘナあります」の一文。一度や二度ではない。通りがかりの町の薬局だったろうか。どうもそれがはっきりしない。見覚えはあったものの、それまでは気にも留めていなかった。
「Go-Ki-So」と車内放送される。
地下鉄に乗っていた。次は「ごきそ」らしい。
「ごき」という音声がゴキブリの視床像を引き出してくる。その像を取り消して、「ご」を抜いて「木曽」を結ぼうとするが無理がある。「漕ぎ」あるいは「扱き」などと、滑稽な動作を遠くに浮かべつつ、描きようのない視床像を諦める。地名には歯が立たない。
到着したホームには「御器所」と書かれていた。神事的な意味を仮定する。何故か「御手洗(みたらい)」と結びつけ、清らかな川瀬と石段が視覚野に現れる。これには誤読もあるだろう。字形群の類似から「御便所」が牽引されたのかもしれない。そのまま修正されることなく、清流で神器を洗う巫女の姿が浮かんでいる。
中央線阿佐ヶ谷と地下鉄丸ノ内線南阿佐ヶ谷の駅間を繋ぐ商店街がある。
パールセンター(pearl center=真珠中央)と呼ばれている。数珠繋ぎだろうか。「商店がまるで数珠のように連なった中央通り」を思い浮かべる。戦後生まれた商店街である。白さと香り、金、銀、パールプレゼント。昔のコマーシャルソングが鳴る。聴床音である。
阿佐ヶ谷からそのパールセンターを、南阿佐ヶ谷へ向かって行くとする。南阿佐ヶ谷に近付くとアーケードが途切れ、商店街が分岐する。すずらん通りが左に続く。
鈴蘭。これは数珠繋ぎではない。可憐な、小さな、数に限りのある花が、適度な間を空けて並ぶのである。
だが二叉右へと続くパールセンターも、アーケードの途切れた以降、数珠繋ぎとも云えなくなってくる。
「ヘナ」と書かれた看板を目にしていた。それはこの、パールセンターがすずらん通りと分岐する正にここである。
「ヘナ」を想うと第一に、この風景が漠然と脳裏に浮かんでいた。
「ヘナあります」という張り紙を、それまで何処かで目にしていても、まずここ、阿佐ヶ谷パールセンターはすずらん通りとの分岐点でこそ、「ヘナ」が強く意識されていた。
へ、な、という字形群が問題なのではない。この場所、風景、映像、映像記憶すなわち視床像が「ヘナ」を謎にしている。
看板の置かれている位置、またその色彩、字形の色彩を含め紛らわしく、複合的に全く、境界が曖昧なのである。何を売る店なのか、意識せねばどちらも、一瞬には判断できない店が並ぶその中間にある「ヘナ」。
右へ進む。
ヘナの分岐点から右側数軒を隔て「カルモシモサカ」の字形群に出会う。
通りに面し僅かに曲線を描き迫り出した硝子、ショーウィンドーがあり、その硝子表面にレタリングシールで表記されている。
まず混乱はその硝子の所為で起きている。字形群の向こう、硝子越しに展示された物が分からない、解り辛い。店内の様子が見えるようで見えない。何を凝視すればいいのか、その優先度が決められない。結果、「カルモシモサカ」の字形群だけに目を奪われる。黙読を繰り返す。
ところが私は「カルモシモサカ」を黙音以上、どうすることもできずにいる。
反復ばかりの黙音が呪文と化す、その縁ぎりぎりに、留まっている気分なのである。
もし妖怪の名前なら、あるような気もするのだが。
①を低、②を高とする高低強調(アクセント)で未然発音していた。一続きで、
カ①・ル②・モ②・シ②・モ②・サ①・カ②
タケヤガヤケタ。
回文か、と訝るが、カモシカ、そしてもしかしてカルガモと、鴨が視床像に現れる。鴨の水性が亀を引き寄せたか、「モシモシカメヨ」と途中から聞こえてしまう。それを打ち消し、軽石、最中、坂、逆、と浮かぶ。その「逆」がまた回文印象を呼び戻しつつ、if(=仮定法)を通って名古屋弁、昔聞いた気のするテレビコマーシャル、「ハヤシもあるでヨ」で確か、「うみゃーぎゃなー、もし。(美味しいよ、ねぇ。)」と聞いた記憶があるような、あるいはそれは偽記憶か。いずれにせよ呼びかけを連想させる「モシ」が滑稽な印象を呼び寄せ、「がさ入れ」の「ガサ」の所為なのか、「モサ」は隠語かと、まさかそんなことはないだろうと、一向に視床像が安定しない。像が次々とすり替わる。
アクセントが不明なのである。音節の区切りも分からない。
この店ではコーヒー豆を売っている、そう分かってから解決する。
日系ブラジル人が自家農園で栽培するコーヒー豆を独自に販売しているらしい。
ポルトガル語と苗字の連結ではないだろうか。
カ②・ル①・モ①/シ①・モ②・サ①・カ①
なのではないか。
下坂さんなのか霜坂さんなのかは分からない。
カルモも知りようはずがない。
それでも一度「carmo 霜坂」を通ってしまうと、轍でも出来たのか、二度とあの「かるもしもさか」という回文じみた呪文には聞こえてこないのである。音節の区切りを知ることで、不可思議な黙音を失ってしまった。
中央線高円寺と地下鉄丸ノ内線新高円寺の駅間を繋ぐ商店街がある。
高円寺からはまず、パルという商店街が南へ延びる。
palと書いてある。視床像は浮かばない。黙音が孤立する。その分、弾けるような爽やかな気分へと誘われる。華やかさ。花の都パリが牽引されているのか、響きとリズムの所為なのか。それとも何処かで聴いていたか。忘れているだけなのか。
その商店街高円寺パルは、駅から続くアーケードが終わると名称が変わる。通りはそのまま続き、ルック商店街となる。
同級生の顔が浮かぶ。80年代のバンド、lookのメンバーだった。
だがそれより、ルックと云えばフジヤである。子供時代に染みついてしまった。
中央線高円寺駅からパル、そしてルックと続く商店街。地下鉄丸ノ内線新高円寺駅までのその全長は、阿佐ヶ谷パールセンターに比べて幾分長いはずだ。
JR中央線と青梅街道が荻窪で浅く交差している。
浅い交差、それは開きかけたハサミのように、その支点に荻窪を置くと空想することだ。丸ノ内線は青梅街道の地下を走っている。
荻窪を起点とすれば、中央線と丸ノ内線は東へ向かい乖離してゆくことになる。
荻窪、阿佐ヶ谷、高円寺、中野、東中野、大久保、新宿と中央線は続く。
一方丸ノ内線は、
荻窪、南阿佐ヶ谷、新高円寺、東高円寺、新中野、中野坂上、西新宿、そして新宿となる。
新宿で再び重なる。それは真っ直ぐ延びていた中央線が、東中野を過ぎて大きく南へ進路を変えるからだ。
三角定規を思い浮かべる。
二等辺三角形ではない方だ。
30度角を荻窪に置く。
東中野大久保間に90度角を置くとする。
残り60度角が新宿に位置する。
それで、長いのは気の所為ではない、と思うのだ。
中野へ通っていた時期がある。事務所があったのだ。辞めてから10年になる。
それでもう一つ、NTSCという響きを思い出した。呪文のように「エヌティーエスシー」と脳の中で蘇る。黙音である。いや旋律に近く、聴床音かもしれない。その事務所の片隅にあったビデオデッキの視床像が浮かんでくる。そこでNTSCをPALへ変換するダビング作業をやっていたのだ。映像資料を送るため、パル変換しなくてはならなかった。イギリス公演、ドイツ公演の実現する前のことである。だから90年代の初め頃か。
30ドロップフレーム。NTSCなら1秒間に30枚の静止画像を見ている。30ぴったりではない。ドロップ(drop=落後)する。実際には29.97だ。この0.03で同期にズレが出る。音楽スタジオでは30non-dropを使う。「あれ、ずれますよ。」と指摘したアシスタントエンジニアの顔が今でも浮かぶ。私のコンピューターは30dropに設定されていた。あの頃は映像絡みの仕事が多かったのだ。
90年代の初めまで、音楽製作にドイツで開発されたアプリケーションを使っていた。その同期信号初期値は25フレームである。PALの規格である。NTSC規格30dropに設定変更しなければ、国内の映像作品と同期しない。
欧州で見る記録映像は秒間5コマ少ない事になる。
その記録方式「パル」が、高円寺の商店街と同じ名前だったのである。
PALからLOOKへ続いていく。
書店というほどではない。雑誌ばかりを扱う、懐かしい体裁の町の本屋だ。
ビニールの庇が通り側に張り出して、その下に表紙を向けて雑誌が陳列されている。その陳列棚が間口を塞ぎ、店内への通路を狭くしている。履物屋もまた店先に商品を陳列する。草履、サンダル、運動靴。か細い針金を撚って結ぶ手書きの値札が、その色褪せした商品一つ一つにぶる下がる。
ハキモノとは言わなくなった。もう履き物は無いのだ。つっかけで出るような横町が無くなってしまったし、下駄で歩くような地面も無い。
さすがにパン屋は無くなっていた。傾いだような木造店舗だった。時代がかった硝子ケースに大量の甘食を並べていた。曲面を描く硝子とタイルをあしらった土台がモダンで、懐かしさのあまり、そこでかさかさの甘食を買った事がある。店の奥は住居と繋がり、曇り硝子の引き戸で仕切られていた。僅かに開いたその引き戸から、ちゃぶ台と粗末な座布団の見えた記憶がある。更地になっていた。
高円寺では有線放送が流れるのである。鼻を摘んではっきり話すような女性の声が、拡声器を通して響き渡る。子供の頃は荻窪でも鳴っていた。記憶の中の音、聴床音が一致する。だが未だにこんな声を出す人がいるのだろうか。他で聴いたことがない。年齢、容姿を想像させない声色。昭和しか思い出さない、昭和の声である。
その放送の途切れる時間帯があるようだ。嘗ては鳴り続いていた宣伝も広告主が減っているのかもしれない。白昼の音のしない商店街は、作り物の、撮影セットのような印象を与える。
「オードムーゲあります」
「ヘナあります」の張り紙を見なくなって久しい。ヘナが何かをようやく知った後、代わりに現れたのがこの「オードムーゲあります」だ。
わざわざ「あります」を付けるのだから、微妙な意味合いを含んでいる。「ヘナ」が分からなかったのもその意味合いを計りかねていたからだ。「今話題の」が省かれているなら、私はその話題に全く関係していないことになる。探している人が多い中、自分はそれを必用としていない、という感覚か。
ヘナのようなものなのだろうと想像する。だが「ヘナ」が軽く舞い上がる印象をもたらすのに対し、「オードムーゲ」には重さがある。濁点の所為である。ヘナのお陰で「黄土」が連想される。「ムーゲ」の「ゲ」が毛、鼻毛などの「げ」を思い起こさせる。野暮ったさが拭えないのは何故か。
「ち」に濁点が着く。ルックのフヂヤ。JR高円寺駅からパルを過ぎ、ルックに入ってしばらく行くと交差点がある。信号機付交差点だ。その交差点右角にフヂヤ薬局がある。高円寺から歩いて来ると「オードムーゲあります」と書かれた旗がまず目に飛び込んでくる。
その逆、青梅街道側、丸ノ内線新高円寺からルック商店街を入っていくとする。しばらく進むと信号機付交差点が現れる。交差点の向こう左角、その角地に建つ建物に目を惹かれる。古く褪せていても立派な建物である。この界隈は随分やられたと訊く。昭和20年のアメリカ軍による空襲だ。駅舎を中心に焼け野原が広がったと訊く。フヂヤ薬局は、その奇跡的に残った戦前の建物なのではないだろうか。
山形だったか会津だったか、どこかの町で見かけていた。ただ車の運転をしながらで、注視することは無かったのだ。黙音のまま、ここでようやく気になって、オードムーゲとはでは何かと、意識的になったのだった。
化粧水でしょ、と教わる。なんだ、と分かったつもりでいた。
ところが後になってから、それで分かったとも思えなくなる。
固有商品名なのか。それとも、今までの化粧水とはどこか違う、化粧水の中の新しい領域なのか。
化粧水であるなら、何故わざわざオードムーゲと表記するのか、それは分からないままなのである。ましてや「あります」と、何かを臭わすその真意を知らない。
相変わらず呪文のままなのである。
2009 Aug.