物音で目が覚めた。まだ暗い。階下から聞こえてくるようだ。キツミと思ったが、キツミは二階の廊下で寝ている。

恐る恐る階段の降り口まで来て耳を澄ます。ごそごそ、と、下から音がする。

「誰かいるんだろ、誰だ！」と階段の下へ向かって大声を出してみた。ぴたっと音は止み静かになる。

そおっと階段を降りていった。先日本棚を退けたので玄関の床が広くなっている。左手にはトイレがある。そのトイレの戸が少し開いている。水を流した後の、タンクが満水になる直前、ちょろちょろいう僅かな音が、その開いた戸の隙間から聞こえてくる。

姉が来ているのかもしれない。何か急用で、こんな夜更けに関わらずやってきたのかもしれない。そんな思いが過ぎったからか、どうもトイレから出て居間の方へ向かう途中らしい女性の後ろ姿が目に入った。姉より身長が低い。髪型が違う。ぞろっと長い薄手のスカートから白い太めの脹ら脛が出ている。それはすぐ、踝上までのソックスでまた隠されてしまうのだけれど。

カナエサンかもしれない。彼女がまだ合い鍵を持っていて、それで入ってきたのかもしれない。こんな夜更けに何だろう。

気付かれた、とでも思ったのか玄関から外に出ようとする彼女。私は急いでその背後から右腕を掴んで引き戻した。くるっとこちらを向いて、顔を見て驚いた。彼女ではない。カナエサンではないのである。

その人は確か、十代の終わり頃からアシスタントをしていた音楽事務所、そこに後から、後輩として一時在籍していた女性ではなかったか。その後東京芸大の作曲科へ進学したはずだ。それ以来会ったことはない。もう30年くらい前の話だ。名前が出てこない。顔は見覚えがあるのだが、何という名前だったか、覚えてもいない。どうして今、ここにいるのか。

髪型で誤魔化していても彼女もいい歳のはずだ。白いのっぺりした顔に、特徴のない細い目が、若い頃の彼女と同じなだけだ。

暗い顔をして彼女は語り出す。

ずっと私を遠くから見ていた、と言うのである。この30年間ずっと。

カナエサンと別れ、犬と寂しく暮らしている今やっと、自分の出番が回ってきたのだと言う。

さっき起きてキツミを撫でた時、あの長い毛が刈り取られ、夏用の短毛になっていたのを思い出した。寝ぼけていた所為ではなく、それはこの人がキツミを刈ったのだろう。

話を聞きながら二階の部屋へ二人で戻った。明け方近くなっている。もうぼんやり、部屋の隅が明るくなっている。鉢植えの花がいくつも置かれている。まるで祭壇に飾られた花のように、ローボードの上で。これもこの人が、私の眠っている間に飾り付けたのだろう。

確かに今、私には助けてくれる人が必要だ。誰か女性が、自分に必要なのは分かっている。しかしこの人は無理だ。どう見ても愛せる対象ではない。困っているのだからいっそ、この人と暮らしてしまおうか、とも考えてみた。渡りに船なのかもしれない。しかし次の瞬間、どうやってこの人を抱けばいいのか、そこで思考は停止してしまった。

せめて名前を思い出そうとしている。

この人は一人ではなかったはずだ。同時にもう一人と一緒に事務所に来たはずだ。仲の良かったもう一人はオガワという名の女の子だったのではないか。それでは音楽事務所ではなく、パパ・タラフマラの美術スタッフとしてやってきた人だったろうか。コイケという名前だったかもしれない。コイケサン....。結局馴染まず、すぐ退団してしまったコイケサン。顔は覚えているのだが、全く思い出せなくなってきた。

2010 5/30