何度もきてるはずなのにどうしたんだろう。さっきから店を探してる。昨日に続けて今日もまただ。ラーメン屋を探してる。
暗いからといって、夜だとも限らない。暗い朝というのだってある。だって大半の夢は明け方、つまり、深い眠りの、その中の、終りの部分でみるものだって、聞いたことがある。迷っているのも、この街が熟睡してるせいかもしれない。でなければ、こんなにも見知らぬ路地を彷徨うはずがない。そうだ。ここは子供の頃から知ってるはずの北口だ。
眠りから醒めるまでは昔のまま。駅ビルなぞない。わかっている。これはあのマーケットのこと。入り組んだ迷路、計画性もなく乱雑に吊り下げられた裸電球。ところどころで白い湯気が立つ。だからきっと季節は今ごろだと思う。十二月。
以前、浅草の六区で働いたことがある。すっかり人のいなくなった夜、店じまいしたモツ煮込み屋から、大きなネズミが出てきた。その日昼食をとった店だ。今目にしてる店は、丁度そんな感じの、半露天というか、建物としての境界線のない、崩壊しかかった家屋だ。地面から直接木造の柱が建っている、そんな店なら盗まれるものなど無いのだろう。やりっぱなしのまま、放置されている。そういう状態、例えば休んでいるとか眠っているとか、そんなところを何とも思わず晒しているものには迫力がある。こちらは侵犯できないで怖じけづいてしまう。今の自分がそうだ。きっとラーメン屋を探してさえなければこんな想いに駆られることもなかったろうに。あのみかん箱を見れば、あれはただの八百屋と考えるべきなんだ。なのに私はラーメン屋だと思ってる。つい二三時間前まで人でごったがえしていたラーメン屋だと思いこんでる。
きっとその後も街を歩いていたんだろう。ひょっとすると目当ての店に入ったのかもしれない。思い出そうとすると、その時でなく、ずっと前に見た夢と間違えているんじゃないかと、自信がなくなる。何軒かの店に寄ったか、あるいはどこにも入れなかったのか、どちらか一方で両方だ。ただ求めていたのは、たぶん、現実世界での江戸一ラーメンだったろう。荻窪ラーメンではない。どちらかといえば九州系のそれは、そんなに白く濁ってはいない。だからこそ迷っていた。分類し辛いと以前から感じていたからこそ、店先に出された黄色い堤灯を見ただけでは、そこに立ち入ろうとしなかった。もうちょっと探そう、もっと自分の求める店が、ずっと前一度寄ったことのある、それ以来見失ってしまった店が見つかるまで、ここいら一帯をくまなく探そう。そう思って荻窪北口を彷徨っていた。
東急沿線の街はどれも似ている。そう感じるのも、それほど城南に関係しない所で生活してるからかもしれない。公演が終わったその日の晩、もう十一時をまわっていたと思う。腹が減ったのはいいが、どうしよう。渋谷か、家まで我慢するか。二人で帰る道すがら食事に誘う。どうも夕食は済ませたらしい。麺類なら付き合えるというので、ふと目にした屋台のラーメン屋を候補に上げる。しかし、本当のことをいうと私は気が向かなかった。目に付いたから言っただけのことで、本気じゃあない。この手の店では決まって麺が細いし、腰がなく水っぽいそれを、どうも好きになれない。屋台という条件がそうさせているのはわかっているのだが。言い出しておいてやめようという場合、たいがいは相手がその気になってる。この時間なら渋谷で探すのも難しいし、ここなら私も付き合えると言われれば、こだわる気持ちも薄れてしまう。そうか。まあいいだろう。決断を自分で下さなかったことで、かえって後悔しないことだってあるだろう、と。
大盛と普通。注文を済ませ、出来上がりを待つ。
裸電球に照らされた屋台。
立ちこめる白い湯気。
見たことがあるなと、ぼうと見つめている。
そうだ、昨日も今日もラーメン屋の夢をみたんだ、と彼女に告げる。いまこうして二人で立っているのも暗示されたことだったのかもしれない、などと言ってみる。その通りかもしれないし、まったくのでっち上げかもしれない。というのも不思議なことに、今一緒にいるこの人は、私の心に棲み憑いてしまうような相手じゃない、思いもよらない、まったくただ、一緒にいる人だからだ。そんなはずないなと思いかけたとき、彼女が通りに向かって指差す。
「あそこにいんの、うちの人たちじゃないかなあ。」
道路を隔てて四五人のグループが見える。違う。あの人たちではない。遠くでも私にはすぐわかった。
もちろん、一瞬の期待を持ったことは否定しない。でも、彼女と違って、そんなことを見間違えるはずのない私なのだ。でも心を覗かれたくないなら、同調しよう。一緒になって迷っていよう。しゃべりながら駅へ向かっていく若い女性の一団を、私も見送っている。
一九九三年十二月五日